《送る言葉があるとすれば》
ん~確かに見ようによってはブレまくりですな。
例えば店を閉めろと言っているかと思えば隣組は胡散臭いと言ってみたり、政府の対応を批判しているかと思えば他国よりよくやっていると言ってみたり。
まぁその時々の思いなんですけど、私の場合なるべくニュートラルを目指してはいます。
つまり初めに言いたいこと、答えがあって、それに合わせて話を展開しているわけではないんですね。
こんな人がいますよね。
死者が40万人を超えると誰かが言って、そうならないだろうということになったら「あいつはダメだ、政府の犬だ」みたいなことを言ったり、「5月6日までを緊急事態にするといったのに、延長するのはうそつきだ」と言ったりしてる人。
実はどちらもこの言葉の前に「何も対策をしなかったら最大で」という言葉があったり、「期間が終わるまでには延長するかどうか考える」みたいな話をしているのに、それをわざとかどうか知りませんけど、無視して批判のための批判に終始されています。
彼らは養老さん曰くの「バカの壁」の持ち主なんですが、そのバカの壁をなぜ持つに至ったのか、なぜ乗り越えようとしないのか、なぜ気付かないのか、そこのところが彼らの持つ問題なわけです。
私としては良い所は良い、悪い所は悪いと評価しているつもりですけれども、それは左右どちらから見てもコウモリのように見えるかもしれません。
人がどう見ようと関係ないと思っているし、プロパガンダを標榜したり空気を読むといったことが大層嫌いなので仕方ありません。
良し悪しは別として、主観的に物事を信じ込まないというのが私のやり方です。
そういえば最近気になっているのが「自粛」という言葉。
これって9年前の「絆」と一緒で、なにか得体のしれない恐ろしさを感じますが、皆さんはそういうことはありませんか?
批判覚悟であえて言えば、本当はこのコロナでこの世は何も変わりません。
変わるのは人の心なんです。
この場合「この世は」というのは地球であって人間社会ではありませんが、宇宙も生命も無生物も何の変化もないんです。
人の作り出した経済や行動様式だけが大きく変わるでしょう。
それに引っ張られて生きざるを得ない我々の喜劇が悲劇になってゆくわけです。
こんな私でも、今踊り場にある我々をしっかりと見据えて、次につながる物語を作ることが、死んでしまった人たちへの手向けになると思っています。
彼らに送る言葉があるとすれば、今はこのようなものしか思い浮かばない私です。