《最後にしよう 終わりにしよう》

もし生きていたら先日100歳を迎えていた私の義父は9091まで長生きした。

米寿に連れ合いを亡くす頃まで車の運転をしていて周りはハラハラしたが、ともかく元気だったし頭のほうも特許をいくつか持っているような人で明晰だったように思う。

しかしその頃から少し認知症が始まった。

 

ある日から寝る前に部屋の窓という窓全部にシーツやタオル、服などを掛けるようになったという。

面倒を任せていた近くに住んでいる義姉が何をしているのか尋ねると、灯りが漏れないようにしているという。

どうも部屋の光が外に漏れるのが気になっているようだった。

 

また風呂上がりに身体中をドライヤーで乾かすようになった。

「湿気ていると病気になるからな。」という。

 

特に誰かに迷惑をかけているわけでもなく、神経質になっているのかなと思っていたが、ある日こんな話をしだした。

 

『台湾に行きたい。

俺は台湾で人を殺した。

行って祈らないといけない。

謝らないといけない。

許してくれるだろうか。』

 

詳しく聞くと戦争でアメリカ兵を3人撃ち殺したという。

そして義父の行動の理由が分かった。

野営をしているときテントや木の枝で作った寝床から光が漏れては即、死につながるのだ。

亜熱帯の気候は湿度も高く、ずっと体が湿気ていたことだろう。

 

頭が昔に戻ったのだった。

彼は今も戦地に居るのだ。

70年以上心のどこかで戦地をさまよっていたのだ。

 

義父はその時銃弾で頬を撃ち抜かれ傷病兵として終戦前に帰って来れたらしい。

その後すっぱいものが食べられなくなったと笑っていた。

 

話を聞いた当時私は何とか彼を台湾に連れて行こうと画策したが、体調も思わしくなくなって行き、断念してしまった。

 

でも今は、もし行っていたら辛さを増幅するだけだったかもしれないので、連れて行かなくてよかったと思っている。

 

私の父親は戦争に行く直前で終戦になった。

その父は開戦前に病死している。

母方の祖父は鉄工所を経営していたので軍需産業として兵役を免除されていたらしい。

私が唯一戦争体験を聞けた親族はこの義父だけだ。

 

最晩年、家に行く度にアルバムを取り出して、懐かしそうに目を細めて戦友の説明をする笑顔が思いだされる。

 

戦争は前ので終わりにしなければいけないと改めて思う。

それは我々やこれから生きる人々にしか出来ない大切なミッションなのだ。

 

たま~にまじめになるタイに在住の友人が下のURLを紹介してくれたので思いだして書いた。

 

 

https://teamimoto.jp/?fbclid=IwAR0VERB2yT1bzo3Z4g8fKX2m5s2I2dWzmda2sEUCYQLsyogJIXnh2tA-5b0

 

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これを書いてから少し調べてみると台湾にはアメリカ軍は上陸していませんでした。
空襲で爆撃は受けたようですがアメリカ人と戦うことは迎撃して落下傘で降りてきた人としか出来ません。

おそらく義父の記憶違いで、戦争をしたのはルソンかマニラかビルマか分かりませんが東南アジアのどこかで、療養先としてまず台湾に帰ってその後本土に帰って来たのではないかと思います。
そして福岡の病院に長い間居たとも言っていました。

記憶の彼方に消え行くのが良いのかどうかは、なるべく正確な記録を残してからにしたいと思います。
もう少し調べることとします。