《国葬ニ思フ》

古来日本では亡くなった人は黄泉の国という別世界へ行って、生前良いことをした人は幸せに暮らし、たとえ悪いことをした人でも穢れ(ケガレ)として恐れ祀り、生きている人は関わらないようにしていた。
その後仏教が入ってきて、死者は仏になるとするようになり、善人悪人共祈りの対象として来た。

ところが西隣の大陸では、自分が殺していない敵の死者は、敵の身内が葬った墓をあばいて遺体を掘り起こし、棍棒で殴り刀で切り刻んできた。

そうしないといつ生き返って来て、自分が厄いを被るか分からないという発想である。

かの国と我々との違いは、地勢図的違いによる文化の違いであって、どちらが良いとか悪いといった問題ではないが、同じ仏教を受け入れた国であってもそれ以前の記憶が優先され、人々の精神を形作っていることは興味深いことである。

さて今回の《国葬》を認めるか否かと騒がしい議論を眺めていて私が思うのは、認めないと墓をあばいている人たちの心には、どうも大陸的匂いがして、それは隣国のプロパガンダが影響しており、日本人の脳の一部がそれに踊らされているような気がしている。

安倍の悪事を忘れたり、うやむやにするべきではないが、ここは一旦丁寧に葬って、事実は整理し記録すべきと私は思っている。
それが戦争犯罪人をも靖国で祀る国の方法であって良いのだろうと考えている。