今は家庭何とかだって?

大学時代、学食で飯を喰っていると「ちょっといいですか?」と話しかけてくるのは、決まって学会か原理研だった。

前者は今の利益に固執する事に特化した歪んだ仏教観を信じ込み、後者は我田引水だけの勝手なキリスト教だった。
どちらも一度論戦に入ると論破するのに2~3時間掛かる。
その後に残るのは、冷めたラーメンの不味さだけだった。

どちらも一度入会すると逃れられそうにない強面の部分は見えたが、入るまでの私のような論者には丁寧に接していたように思う。

それより浅くて、うつろな目が恐ろしげだったのはエホバの証人とか、出てきたばかりのオウムの前身のような集団だった。
これらは見るからにカルトで、人の意見などを聞く耳のない、ki印そのもののように見えた。

論文のエサに、彼らや共産主義系の暴力集団などともずいぶん話したが、そこから得たものは、誤った考えにたどり着いた者たちの考えを変えてやろうとか、諭してやろうなんて、全くの徒労だということだ。

なぜなら彼ら自身が、全くの時間の無駄づかいをして、そこにたどり着いているのだから、彼らを我々と同じ人間と考える事自身に無理があり、無駄なのだ。

違う世界でこちら側と接点がないように生きて行けばいいのに、たまに暗殺者を生んだり、隣の国に攻め行ったりするのが厄介だ。

オレオレ詐欺やヤクザ者の厄介さとはまた違う、心を蝕まれた人たちの、別の臭いのする、果てのない寂寞さというか荒涼さがある。

人がひとり、一生を生きると言うことは、かくも大変な事なのだなぁと、改めて思っている。