《社会学部出身の私が言うのも何ですが》

私が学生だった頃の社会科は中学校では歴史・地理・公民に分かれていて、高校では日本史・世界史・地理はそれぞれAとBに分かれ、公民は現代社会・倫理社会・政治経済に分かれていました。もちろんどれが重要ということはなく、歴史を学ばないと将来は見通せないし、地理的な洞察がないと国際関係の判断を誤り、今を生きている我々の関心事として、人間の培ってきた倫理観を学ぶ必要もあり、集団の方向付けとしての政治、豊かさの指標としての経済を知ることも必要というわけです。
歴史は文字で残されていることが多いので文学と接点が強く、読み方を誤ると悲惨な結果が待っています。南京事件慰安婦問題などが好例ではないでしょうか。文学に堪能な方がわざと我田引水してかき回し、市井の人々がそれに操られるという図式が実に多い分野でもあります。
倫理社会は哲学・心理学・宗教学などと関わりが深く、私は大脳が旧脳を制御する過程を示したものと受け止めています。
人間の倫理の確立を進めるのか、それともいい加減な所で止めておくのか、深いところで考えなければなりません。
例えば不倫を肯定するか否かなどは、その人の脳の発達具合を如実に示していると思います。東の方から出てきた話題に、某女史が「一夫一婦制は人類の壮大な無駄」と言ったり、オランウータン顔の芸人が「オシドリのオスは交尾後どこかへ行ってしまう」と言ったらしいが、私に言わせれば一夫一婦制はその方が良いと現代の人類の多くが決めたことであり、この国でも法律で縛ってあるのだから、嫌なら法律を変える努力をするか、よその国で2号さんにでもなるしかないし、オシドリのほうも、だれも鳥の話をしているのではなく人類の話をしているのであって、このオランウータンは小脳しかないのかなと思ってしまいます。
政治経済は本来なら政治と経済に分けて学ぶ必要があるように思いますが、これらを一緒にした理由はやはりこれらは分かちがたい関係にあるからに相違ありません。
この分野は人間社会のみならず、現代では多くの生物の存続を決定してしまうほどの力を持っています。この分野が盛んなのは世の中を良くしたいという願いの表れなのでしょうが、それ以上にこの力への憧れが人々の心理に影響していることを認識すべきでしょう。
手っ取り早く言えば、『権力とゼニへの欲』が行動を決めているのです。
他人の、他国の『権力とゼニへの欲』をどう制御するかが、多くの人の関心事です。
そうしなければ生きてゆけない人はそうすればいいと思いますが、金持ちほど金に汚く、権力を得るために賢くなろうとしている人も多いと思います。
お金の話ばかりする人は政治を語らず、政治という神輿を担いでいる人はお金持ちを攻撃する。でも彼らは実は同じ穴のムジナです。敵を作り、自らを仕立てているのです。
つまり甘い汁に群がる即物的学問が政経のような気がします。
歴史や地理、特に倫理学をないがしろにしたまま政経を語るのは非常に危険な行為と言わざるを得ません。
かくいう私も学生の時は、マスコミュニケーション学部というところで汚濁にまみれた研究をしていました。そんな自分が嫌になって、卒業後改めて文学部に進むことになります。おかげで文春なり新潮のようなところで働かなくて済みました。
というのは冗談ですが、学生中に結婚していた私は、とある業界新聞に就職が決まりかけていた矢先、突然家業を継ぐために田舎へ帰ることになります。
そこで初めてこの世の洗礼を受け、社会というものを考え直すことになります。
どんなに高邁な理論も、目の前の一万円札には勝てないのです。そこで私は考えました。この現実は正しいのだろうか。人間がするべき所作なのだろうかと。
15年ほど考えて出た答えは否でした。心を制御せずに何が人間か。眼前の欲に負けないことを目指そうと。ただし食欲以外。(笑)
それから20年、今思うことは政治経済を語るのも結構、だがその前に歴史を学び、地理を調べ、特に倫理を磨くことが重要なことで、自分より権力の大きい人、お金持ちをこき下ろすだけの『溜飲家』になってはつまらないということです。
社会学部出身の私がいまさら言うのも何ですが、社会をいじるために人がいるのではなく、人のために人が社会を作ったことを今一度思い起こして、もう少しだけ生きてゆこうと思っています。    2020/01/24 夜