《マララ・デーに寄せて》
7月12日は、2013年からマララ・デーということになっている。
父親が校長をしていた学校に通っていたという理由で、彼女がタリバンの兵士に頭を撃たれたのもそんな中でのことだった。
これは女性を護るためという大義名分が、文化として実しやかに流布されているが、本当は女性を縛り付け、男性の所有物にするためである。
釈迦も元々女性差別をしていたが、ある時、ある事件をきっかけに少し考えを改めた。
(もっとも勝手な解釈を推し進めた仏教の過ちも大きいが。例えば稚児など。)
いまだ立ち遅れている感は否めないが、私はもう千年もすればイスラム教も良くなるだろうと思っている。
マララさんの主張は正しい。
まったく正当である。
つまり正義をただまっすぐ訴えるだけではことは進まない、清濁併せ呑む度量が必要なように感じた。
『世界を変えるのは教育でしかない』
一言で言えばこれが彼女の主張であろう。
私がこのことに気付いたのは、修学年齢も過ぎた25歳くらいのことで、彼女が15~6歳で気付いたのは驚異的なことと思う。
世界にはびこる諸問題、格差、貧困、病気、環境、対立、暴力、差別、紛争、戦争・・・、世界中の人が良質な、高等な教育を受けることができれば、それらは一挙に解決する。
しかし解決されては困る、気付かれては困る人々が居る。
できれば女性に、また現在教育を受けられていない人たちに、教育を施したくない為政者、富者、力を鼓舞する者たちへ、挑み続けることに人生を掛けてもやぶさかではないはずだ。
気付くだけなら少し考えれば、誰もがいつかは気付く。
何の迷いもなくそれを発信し、実践していったのが彼女の素晴らしい所だ。
むろん体験が気付かせたのだろうが、このエポックな人を見守り、助けてゆくのは我々大人の務めだろうし、我々男性の責任でもあると、私は感じている。