《ネオテニー》

ネオテニーというのは幼形成熟といって、幼い顔かたちのままの大人のことを言います。
22歳の時に昼間に地下街を歩いていると、授業をさぼっている高校生に間違えられ「僕、こんなことしてないで自衛隊に入らんか。」といわれた私のような人はまさにネオテニーでしょう。

 

もっとも人間は猿のネオテニーであるという説もあります。
人が犬と仲が良いのは、犬もオオカミのネオテニーだからといいます。
顔かたちだけでなく、精神的にも人や犬は幼い心を残したまま大人になります。
魚も鳥も子供はいつも群れていますが、それはそれなりの理由があるわけです。
それは弱さを武器にして社会性を保ち、集団で生きていく方法を取った動物の戦術でもあります。
我々はそれを大人にまで拡大したのです。

 

さて昨今、反社会勢力とつながりを持ったとかで、芸人がやり玉に上げられ、またその芸人たちの所属会社の社長が彼らを恫喝したとのニュースが飛び交っています。

 

反社会的な人はなぜ反社会的なのか。
彼らは我々ネオテニーの集団から逸脱したいわけです。
俺は子供じゃない、大人だ、子供扱いするな!!といっているのです。
もっとも文字通り、一匹狼では生きてゆけないので、彼らなりの集団の中で、その序列に従って生きるのですから同じことなのですが、それには気付く故もありません。

 

恫喝社長も同じです。
集団の中で、俺は強いんだ!!といっているのです。
金持ちの買い物自慢、賢い人の出身校自慢、ゴマをすられて鼻の穴を広げている専務、常務、部長、課長~なんたらも同じです。

 

自称ロックンローラーもしかり、人には集団の中でぬくぬくと暮らしたい欲求と、その中から抜け出て新しいフロンティアを求める心が拮抗しているようです。

 

こう考えていけばサル山のボスで居たい欲求は、権力と共に増え、そこに居られない者はその社会を去り、どの社会からも受け入れてもらえないものは、自ずと反社会勢力になるという図式が見えてきます。
力もないのに集団から逸脱したい気持ちに負けたものが反社会勢力になるということです。

 

家庭環境や生まれた場所、個人の能力などによる差別もまったく減っていません。
先日の選挙結果を見ても、わが国でもポピュリズムの台頭が目立ちます。
権力を一部の特権階級のものから大衆へ移管することはできるのでしょうか。
できたとして、そののちその権力を彼らはどう使いこなせるでしょうか。

 

まぁみなさん、あせらずに落ち着いて考えて行きましょう。
良い人も悪くなるかもしれません。
逆に悪い人たちも良くなるかもしれません。
主張、主張で世の中が良くなるとは思えません。
客観的視野を手に入れて、ゆっくりと歩みましょう。

 

どうせみんな100年も、幼形のまま生きなきゃいけないんだから。