《姿勢》
ここ数年(十数年かも)バンドはほぼ死火山状態で、一人で参加しているライブ時など、座ってギター1本で唄うことが多い。
どなたかが撮られたものを戴いて、家でこっそり観たりするが、何と姿勢の悪いことか。
もっと背筋を伸ばして唄えば、声もちゃんと出そうなものに、背中が丸い上に首が前へ出て、これでは届くものも届かないように思う。
などと反省のようなものをしては、ハードディスクのどこか深くしまい込んで二度と観ることもない。
葬式や法事で物笑いの種になる前に、処分しなければなるまい。
一方音楽に対する姿勢と言えば、年々シンプルになってきているような気がする。
主にエレキギターを弾いていた頃は、音色にこだわって様々なエフェクター(当時はアタッチメントといっていた)を駆使して悦に入っていた。
またギターアンプもエスカレートして、30W、50Wから100Wのツインスピーカーをはじめ、お決まりの120W、さらに300Wまで手を伸ばした。
マイクも、やれ58だ、57だ、いやコンデンサー、ヘッドセットと、実力も共わないまま試してきた。
ギター自身も各種1本ずつ所望すると、知らぬ間に10本、20本になってしまっている。
しかし最近、年を取ってか、そんなものはどうでもよいように思うようになった。
ボーカリストは言葉を届けてナンボである。
どんなにいい曲でも、聴いている人の心には届かなければ何にもならない。
聴きに来てよかったと、思ってもらえないなら意味がない。
他のことは、私に取っては意味をなさない事柄になった。
マスターベーションなら普通、人前でしないだろう。
50万、100万円のギターで自己満足を見せるより、たとえ数万円のギターでも心に届く唄が歌えたほうが尊いように思うようになった。
自分はここで唄を歌って、何をしたいのか。
20歳、30歳の楽しみ方と、60歳になりなんとする人間の楽しみ方が同じであろうはずがない。
間違ったり、音や声が出なくなったり、演者のそういうことも含めて、聴きに来ていただいている皆さんが、こいつもまた生きているんだということを感じていただければよいように思う。
もちろん最低限のマイクパフォーマンスや音楽的技術は必要で、先述の言葉を届けることができた上での話だが、やっているのは『ライブ』である。
日本語に訳せば『生きている』ということそのものを伝えるのが大切なような気がする。
とはいうものの、年々出演も減ってきた。減らしてきた。
今年も春に岡山で集まって以来、11月のライブ及びオフ会、地元でのイベントだけだ。
定年になれば来年3月にオファーを受けているライブを最後にそろそろ隠居生活に入ろうかと思っていたが、どうもそうはいかなくなってきた。
どうなってゆくかなんて、はっきり言ってわからない。
これからも音楽と切れることはないだろうが、後はケセラセラ、涙とギターを道連れに、夢見ていければと思っている。