《祝、卒寿》

昨夜熱にうなされて見た夢。

また空襲だ。
今回は相当大規模のようで、遠くの南の地区が真っ赤に燃えている。
「なにをしているんだ!すぐ逃げろ!」
近所の人のわめき声と同時にすぐ近くで爆発音がした。
家の外へ出るともう、そこここに火の手が上がっている。
家から500mほどの所に小さな川がある。
そこへ目掛けてみんな一目散に走る。
火の粉を払いながらたどり着いた川に腰までつかって身を潜めた。

下流から一直線に敵機がやってくる。
敵機かどうかは音で分かる。
機銃掃射の雨。
頭を抱え水面に潜ろうと一層身をかがめたとき、真後ろにいたおばさんの「ギャッ!」という声がした。
振り返るとそのおばさんはすでに首から上が無かった。

何度となく母から聞かされてきた空襲の体験談だ。

今日で私は62歳になる。
この62年と言うのは私がこの世に一個の生命体として出てきた年数である。
しかし実は私がこの世に『物質』として出現したのはもっと前なのである。
卵子卵子になる前、卵母細胞として母親の体内で生きている。
その卵母細胞がいつできるかと言うと、母がその母親(私から言うと祖母)の体内にいる時なのだ。

祖母が受精して母が胎児の時、おおよそ受精後6か月くらいの胎児の頃、胎児の体内の卵母細胞の数はピークを迎える。
父親の精子はその都度作られるので、厳密にはその卵母細胞は私ではないが、それは紛れもなく『私の元』である。

つまり私はこの母の体内で、一緒に川に潜り、一緒に首の無くなったおばさんを見て、またその後、近くの公園などでうず高く積まれた焼死体を見ているのだ。

母親は1932年の夏生まれだから『私の元』はちょうど90年前の今頃、この世に他の物質から『人間の元』に姿を変えているのだ。
だから私は、実は自分は90歳だと思っている。

今ロシアがわが国が行った侵略とまったく同じことをしている。
新羅・唐の連合軍と戦った白村江の戦、朝鮮・明を相手に挑んだ秀吉軍、国際連盟を離脱して世界を相手にし、原爆を落とされてやっと目が覚めたこの国。

どうかロシアが、世界が終わってしまう前に、力を信じ、欲を求め過ぎる愚かさに気付いてくれることを願いたい。
人に幸あれ、90歳のジジイは今そんなことを思っている。

 

三回目の接種を終え、痛むモデルナアームでパソコンを打ってみた。

《暇人は今日も書く》

今日もっとも面白かったのは、アメ大の一般教書演説だった。

内容は特に目新しいこともなく、半分勝手なことを言ってるだけだったが、後ろのおばちゃんとおばあちゃん、何回立ったり座ったりしてんね~ん!!

椅子が痛むわ~!!!

それもウソ笑いしながら~!

ロシアの閣僚と一緒や~ん!!!

 

てな前置きは置いといて、ウクライナについてもう少し考えてみた。

 

7世紀あたり日本は百済の人々を新羅の侵略から守るのだと言って出兵した。

白村江の戦いだ。

その昔から倭国百済は貿易などを親密に行っていた。

唐と新羅は結託し、結局日本は逃げ帰ることになる。

その後何度か出兵したが、16世紀になり豊臣秀吉は遠征軍を送り、明と朝鮮の連合軍と対峙した。

 

また明治末期より第2次大戦が終わるまで大日本帝国大韓帝国を併合して、かなり蹂躙し日本語も強制していた。

朝鮮はいずれの時も中国に助けを求め、結局日本を撃退することになる。

かの地には1300年以上前から無名の日本人の兵士の墓があるという。

 

今まさにロシア、ウクライナ、EU諸国で歴史が繰り返されているように感じるのは私だけだろうか?

 

無言で帰るロシア兵の母親は何を思うだろう。

 

突然未来を奪われたウクライナ市民の末裔は、これから何千年ロシアを恨むだろう。

 

戦争を始めない知恵は、人間には付かないものなのか。

 

それとは別に、ここに来てウクライナだけが悪いのではないという意見も聞く。

東部親ロシア地区の住民を虐殺はどうかとしても、虐げていたことはあるように思う。

それがロシアの出兵を肯定する理由にはならないが、口実を与えてしまっている。

 

またわが国側から見てウクライナは、中国に空母を始め戦闘機、戦車などを売り、巨額の利益を上げている。

中国のみならずアフリカ諸国などへも死の商人として暗躍していたようだ。

ハード面だけでなくIT大国でもあるウクライナは、戦争に必要なソフトなども各国に提供していたようだ。

 

年に何度かある災害時には私は幾ばくかの寄付をしているが、今回はそれが鉄砲の弾に変わる可能性が無いという証明ができない限り、ウクライナに対して支援はしないと決めた。

 

これが間違っているかどうか、今は分からない。

また三木谷なにがしと同率くらいの寄付を申し出るかもしれない。

ただし寄付するときは家族と相談してと前置きすることは無い。

(資産6000億円以上のうちの10億円は、私に取っては数万円だから。笑)

 

 

今後も成り行きを見守りつつ、思考は止めないでおきたいと思っている。

 

痛む膝に注射を打ってもらって快適になったので書いてみた。

《MY天皇論》

生まれる前からあったものを、そこに生まれたからと言って無批判に受け入れなければならないものではないが、かといって全てをそのまま受け入れるべきでもない。
新世界の黒人もそうだし、君主制などもそうだ。
天皇制も誰彼たちが寄って考え、作って行ったのだろう。 
世界を見ても王族のいる国は数多くある。
それは私は、肉体と精神のバランスの為に必要だったからと考えている。肉体つまり力、軍隊・警察・自衛隊もののふ・さぶらひなど集団を維持するうえで、内外の反対勢力などに対して行使しなければならない武力を磨く集団である。
精神、それは予言であったり占い、祈りなどを使い、人智で制御できない病気、老化、運命のようなものに怯える気持ちを安心させる作用があったであろうシャーマニズムの形成である。
元来それらは一つであったはずだ。
強いものが集団を治め、人民をより良い未来に導くべく働いていたはずだ。
スサノオノミコト~ヒミコくらいまでは。
ところがただ強いだけで利己的な、人心を掌握できないものが現れる。
曽我氏と物部氏の争いは宗教対立と言われているが、私は権力闘争に過ぎないと思っている。
そこで大化の改新以降生まれたのが二元制だろう。
平氏~源氏~~~~徳川、日本は長く天皇を別に置き、政治は幕府に任せるという方法を取ってきた。 
現在のイギリスなどもそうなっている。
二か所にその中枢を置くと、集団は円ではなく楕円形になる。
つまり集団内の『個』には逃げ場があるのだ。
あるときは宗教的精神を軸に生き、あるときは実利を求めて生きる。
困ったときの何とやらである。 
ところが力を手に入れたほうの人たちは、心も手に入れたくなる。
ミャンマー軍のクーデター、中国、北朝鮮などの偽りの共産国家、なんとか昔に戻りたいロシア、密教を利用した空海法華経を我田引水した日蓮などもそうかもしれない。 
本当は肉体と精神を統一させるものは芸術だけなのだ。
絵画も音楽も芝居も映画も体を使って心を表現する手段である。
だから崇高な精神の宿らない表現者・表現物は、自己顕示の欲しか表せない。
必要悪とは言わないし、あってもなくてもよいが、あった方が世の中を安定させる漬物石のような存在で、人畜無害ならあっても良いもの。
軍が率いる国家・世界よりも相当マシであり、今のところ他にもっと良い集団形成方法が見当たらないので、まぁいいか~というような体制、それが天皇制と私は考えている。
 
それに休日も1日増えるから、なお良しとしよう。
 
蛇足だが、私は天皇の男女はもちろん問わないが、出来れば女性の方がうまく行きそうな気がする。

《誰》

コロナはまだまだ続くのでしょう

そして罹った誰かへは
これまで通り
隔離しろ
疎外しろ
おまえらは
俺たちと違う人たちだ

寄るな
触るな
あっちへ行けと
忌み嫌うのでしょう

そしてまた
感染が広がるごとに
もっと締め付けてくれ
出歩けないように
鎖でつないでくれ
俺たちに首輪を付けてくれ
その上で金をくれと
上の誰かに訴えて

奴隷のように
或いは飼い犬のように
拝み
願うのでしょう

喉元を過ぎるまで
誰もがこれまで
何千年も
してきたように

忘れてしまって
また夢の中に
埋もれられるように

それが人間だから
それが俺たちだから

医者や看護士に
感謝はしても
もし彼らの誰かが
八時間労働で
帰ってしまったら
何と言って
罵声を浴びせるでしょう

人が死ぬのは
彼らのせいではなく
社会構造であることを
理解しないまま

考えることを
拒否した人の群れが
今日もテレビで
お笑いの誰かや
スポーツをしている
誰かを見ている

家畜化された
自分に気付かず
何となく
窮屈な日々を

酒や
花や
金で
紛らわせ
死んでゆく

得するのは誰

向こうを向いて
笑っているのは

 

いったい

 

誰だ

いったい

誰だ

《歳末ニ思フ》

今年病床がひっ迫した時、同じ助けるなら年寄りよりも若い人をと言う意見を、みんな本気で考え、議論が広まったのを私は忘れない。

これは世界で広まったヘイトクライムや精神病患者への虐待などと何ら変わらない。

戦争時も同じで、人は追い詰められると簡単に弱者に自らのストレスを転嫁する。

差別されている側の人は恐怖におののく日々を、今この瞬間も過ごしている。

また収入の減った人は減ってない人を憎み、減ってない人は見て見ぬ振りと言うのも変わらず、分断に拍車を掛ける。

ノストラダムスさん、20数年遅れて恐怖の大王がやっとやってきましたよ。

そしてそれはコロナなんかではなく、実は人間だったという喜劇。

三年目の来年は、起承転結の転となるように、新しい幕が開くことを期待しています。

どうぞ皆さま、良いお年を!

《年の瀬無題 2021/12/19》

うまく言えないが、才能や美ぼう、仕事や財産、名声や標榜、肉親の存在や愛の多寡、そんなものでは命は救われないのなら、人はいったい何を糧に生きてゆけばいいのだろうか?

釈迦は『自灯明、法灯明』と言った。

自分自身と真理を拠り所にせよという。

ではどうすれば坊主にならないのでそれができるのか?

それをもっと分かりやすく説いておいて欲しかった。

ほとんどの人は自分の行動を、他者との関係の中で成り立たせているだろう。

自分の中の何を確立すれば自分だけを尊び、なおかつ他人ともうまくやって行けるのだろう?

そもそもみんながみんな真理を理解できるのだろうか?

すべてのものは移りゆく。

それが理解できたからと言って命は救えるのだろうか?

誰しも自分が何なのか、真理は何なのか、そんな事を気にかけてばかりでは生きていない。

そこに闇が生まれ、潜み、隙が膨らむのだろうか?

今のコロナ堝、人は皆長い長いトンネルの中にいる。

心を蝕まれた人も多いだろう。

ただでさえ無理を続けているのだ。

休めよ、逃げよ。

自分で自分を縛らないで、堂々とエスケープしてはどうか?

お前がお前を生んだのではないだろう。

お前は生まれてきた。

アイ、ワズ、ボーン。

生きるとはあくまでも受け身なのだと思う。

お前が自ら死ぬのはお門違い。

その与えられた命を全うすることも人の勤めではないだろうか。

そんな言葉も空しくなるニュースが今日、この冬一番の寒空を駆けめぐっている。

《この庭で》

よく見るとこの小さな庭にも

アリやコオロギやマルムシなど

地を這う虫たちがいる

 

かれらは庭の外を知らない

身の回りの物を食べて

身の回りで生きている

 

中にはそのうち羽が生え空を飛び

垣根を超え山や川を見るものもいる

そしてこの大地が島だったと知る

 

我々のほとんどもこの島で暮らしているが

中には出て行き生きていくものもいる

世界を見てここが星だと知る

 

昼間の空は太陽か雲か雨

人は風を読み距離や重さを計り

やがてこの星の成り立ちを知るようになる

 

夜の空は深淵だ

月や星を眺めているうちに

心や時の存在を知り意味を探る

 

あらゆるものを手中に収め

それらを知識と呼んだり

愛や富と呼ぶようになる

 

今我々はやっと宇宙に飛び出そうとしている

さてそこで地を這う虫たちよ

そろそろ教えてくれないか

 

お前たちは何をするものなのか

お前たちはなぜ生きている

お前たちはいったい幸せなのか

 

俺たちは何をするものか

俺たちはなぜ生きている

幸せとはいったい何なのか

 

同じこの庭で生きている

地を這う虫たちよ

俺たちにも教えてくれないか

 

それとももし知らずに生きているのなら

どうして知らずに生きていられるのかを

だれか教えてくれないだろうか